「天下一人でもその真実の手本を見せたい」

 
1899年に出版された福沢諭吉による自伝「福翁自伝」

当時の日本人が十人に一人は読んだとされる「学問のすゝめ」の著者でもあるが、こちらの方はそのタイトルにあるように自伝だ。

文量は「学問のすゝめ」と比べると400ページ越えで、かなり多いが、基本的に口頭で著述されたものなので読みやすい。

 
そんなことよりも面白いのは、福沢諭吉の「読書」のスタイルであり、その「読書人生」、言い換えれば、「勉強して成長することに対しての生き様」だ。

慶應義塾大学の創設者でもある福沢は、そのイメージからすると、始めから勉強好きで幼少期から読書をしていたようにも思えるが、実はそうではない。
 
 

 
年十四五にして初めて読書に志す

当時江戸末期の日本では、「論語」や「大学」などの儒教の書物が、最たる教材として全国で読まれていた。

いずれも儒学の最も重要とされる経典であり、「中庸」「孟子」を合わせた四冊は四書と呼ばれる。
「世界の四聖」の一人、孔子の教えが盛り込まれた書物である。
 
だが、はっきり言って福沢は勉強が嫌いであった。
本を読むのは、甚だ嫌いであった」と吐露している。

 
 
だが福沢は読書の理解が他人よりも優れており、その天稟があったようだ。人に読み聞かせたり、教える機会にも恵まれ、読書の面白さに目覚めたようだ。

歴史に名を残す賢人の多くに共通していることの一つとして、旅をして見聞を広めるというのがある。
福沢もその例にもれずアメリカやヨーロッパを旅している。

 
幕末期は日本史の中でも歴史ファンが多く、激動の時代といえるだろうが、ペリーがアメリカから軍艦で日本にやって来て、砲弾をぶっ放してからは特に、西洋かぶれの人間が惨殺される事件も乱発した。

そんな状況の中でも、福沢は外国に行く度に、有り金の全てを使って英書を買い込み日本に持ち帰った

福沢は勉強して得られるようになったお金を、またさらに勉強に費やしていた

それは西洋のことを勉強したいという自分の気持ちと、外国人を討ち滅ぼせという世間の流れが逆行し始めても、止まることはなかった。

 
世間が攘夷だの、外国の書を読むような奴は不埒な奴だ、売国奴だと罵っても、そんなことは関係ない。

俺は俺がやりたい勉強をやる。
これが福沢諭吉である。

まさに筋金入りの、勉強好きだ。
 
 
 
 

封建制度を極度に嫌った福沢諭吉

こうした福沢の己を貫いていく独立不羈の精神は、どのように培われたのであろうか。

江戸時代は「士農工商」と言われる身分制度で、生まれた時から職業と身分が決められていた。
農民の家に生まれる子孫は永久に農民のままである。
江戸時代では、商人が最も身分が低いとされていた。

そう考えると、武士の身分で脱藩し、薩長を結んで、俺は船で海を超えて国を結ぶ商人になると言った坂本龍馬の発想は面白いなと改めて思う。

 
福沢も武士の生まれで、武士は武士でも下士であった。同じ武士であっても上士とは扱いが雲泥の差である。

福沢の父は能力も高く優れていたにも関わらず、固定された身分制度によって、出世することも叶わず、しかもそれは自分の子であってもそうなのであって、さらにどんな上士にも、ただ上士であるということだけで、ペコペコしなければならない。

そういった父の思い苦しむ姿を見て福沢は「門閥制度は親の仇で御座る」と言うのだった。

福沢の反骨心はこれによって培われたのだろう。

 
 
 
福沢諭吉という人間の人物像

一万円札の顔にも選ばれている福沢で、ともすれば政府の人間として活躍した人物かと思ってしまうが、実はそうではなく、幕府にも攘夷論者にも新明治政府にも、どの勢力にも依拠することなく、俺は俺だと、生涯独立不羈の精神を貫いた男だったのだ。

 
 
日本中の人が、出世の道は政府の要人になること以外道はないと思い込んでいるなかで、
天下にただ一人でも独立不羈の精神をもって、真に己が境地へと目指す態度で放った言葉。

 
「天下一人でもその真実の手本を見せたい」

その結果、福沢は天下の手本となっている。

 
 
YOERU.

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